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太陽のあたる場所

早く大人になりたいと夢みてた 今しかできないことは一生 夢の結晶 いつか実証

3.11

以下、記憶の整理。

 

あの日は学校の授業最終日で、追公の反省会をしていつも通りに授業は終わって。

「またねー」なんてみんなと手を振って別れたんだっけ。

クラスメイトに片っ端から声かけてカラオケ行って、結局集まったのは私含めて3人だったけど、楽しい放課後になるはずだった。

広いパーティールームで3人でカラオケしてて、そしたら急に揺れだして。

最初はなんてことない地震だと思ってた。3階だったし、大きく感じるだけだって。

テレビは消えちゃうし、スピーカーはぐらんぐらん揺れるし何が起きたのか全然わかんなかった。

必死で階段で外に出て、とりあえずカラオケの伝票どうしようか考えてた私は正気じゃなかったんだと思う。

仙台駅から岩手に帰るバスなんて出なくて、電車も新幹線だって当然ストップして。

地元の人間じゃないから避難所なんて知らないし、どうしたらいいかわからなくてひたすら歩いた。

すごい晴れの日だったのに、雪が降ってきてた。

目に入ったコンビニで口に入れられそうなものは何でも買った。

おにぎりとかなかったけど、ホワイトデーの時期で、誰も買わないよねチョコならいっぱいあった。

とりあえず学校に向かってみた。午後のクラスが授業やってたはずだから。

帰れなくなった生徒と先生がいた。

学校にいてもしょうがないから、みんなで避難所になってた近くのNTTに行って夜を過ごした。

充電させてくれてたから、電池切らすことはなくてほんとに助かった。

そのころやっと両親とも祖父母とも東京とか大阪の友達とも連絡取れた。

何話したか覚えてないけど、ばあちゃんが言うには「生きてるよ」って言って電話は切れたらしい。覚えてない。

朝になったら学校に戻って、バスが出てて帰れる人は帰ることになった。

岩手行きのバスなんてなかったから、帰れるわけもなくてそれから一週間学校で寝泊まりしてた。

学校の隣が東北電力で、すぐ来たと思う。学校の大きいテレビで、津波の様子見てた。

仙台空港の映像でクラスメイトにこの近くの子いたよねなんて話してた(この時点でクラス全員と連絡取れたわけじゃなかったから、なんてことない思ってた)。

夜は近所に住んでる子が、ガスコンロとか、水とかパスタとか持ってきてくれて、普通に食べれた。ミートソースおいしいと思ったの初めて。

あやふやだけど、たぶんニュースで見た原発の水素爆発はこの日だったのかな。

三日目。

クラスの子の半分と連絡取れて、街中がどんな様子なのか見に行った。

何も言えなかった。心の中では救命病棟で見たやつだとか思ってた。

四日目。

物資が届き始めたコンビニ回り。先生に「放射能が出てるから早く戻っておいで」って言われたの覚えてる。あとヘリコプター飛んでた。手とか振ってみたりした。

カップ麺とか食料と、洗面道具とかシャンプーとか買って、水で頭洗った。

それ以外にやることなくて暇だったからみんなでモンハンやってた。

五日目。

コンビニ回りと、近くの避難所にうちの生徒がいないか見て回った。

行ったのは市役所?だったのかな。そこでやっと、地震なんだって自覚した。

この日も放射能気を付けてって言われた。放射能に気を付けろって言われてもどうすればいいのかよくわからない。

この日も午後はモンハン。

六日目。

デパートが開くって聞いて、深夜から交代で並んで食料の買い出し、日用品なども買い込む。

店を出たとこで韓国のテレビ局に追いかけられる。大量の食料品を見て「そんなに買ってどうするんですか」食うんだよ!

午後はやっぱりモンハン。

七日目。

岩手行きのバスが出るとのこと。

バスに乗って、盛岡まで行って、そこから北上に帰った。

盛岡駅構内のNEWDAYSで点数制限ぎりぎりまで乾麺を買い込む。

そこで学級委員からの電話でクラスメイトが一人亡くなったことを知らされる。あんなに泣いたのはたぶんあれが最後。

 

 

いつだったかな、夜中に震度5強の余震があったらしいんだけど覚えてないし、私起きなかったらしくて先輩に「死ぬ気か!?」って怒られた。

家に帰ってからは、仕事に戻った母の代わりに買い出ししたりしてた。

バイト先は焼肉屋で、ガスが届かなかったから営業停止。

一週間前のことでも思い出すのに一苦労する私が、5年前のことこんなに覚えてるって、それだけのことだったんだと思う。

まだ5年。もう5年。

たぶん一生忘れたくても忘れられない日。